阪神 ドラフト1位のその後
こんなタイトルの本を見かけて
手に取らずにはおれなかった植田です…。
コンビニに売ってました。
パラパラとめくり、購入即決。
1980年以降の歴代ドラフト1位(逆指名、自由枠、希望枠含む)の選手について詳しく書かれた本です。
中田良広からはじまり
あの源五郎丸洋、木戸克彦、中西清起…、懐かしい話も色々。
しかし
安藤優也に関する記述で引っ掛かる部分が。
「入団後、04年までは主に中継。それもJFKにつなぐ役割だった。」
うーむ、これは当時の事を全く知らない人が書いたんだなあ、と残念に思いましたね。
安藤は1年目にチョコチョコ先発したりしていましたがパッとせず
2年目の03年に開幕当初から中継起用され、アウトローに147キロ位のストレートをビシビシ決めて一躍セットアッパーに躍り出ました。
当初抑えを期待されたポートというピッチャーがサッパリでしたが、ジェフ・ウィリアムスが快刀乱麻を見せて抑えに定着。
しばらくしてポートに代わって獲得したリガンというピッチャーが勝ちパターンに加わり
リガン - 安藤 - ウィリアムス
という勝ちパターンの継投を星野監督が作りあげたのです。
そして、優勝。
安藤は主力として大いに貢献したのです。
JFKは未だ存在していません。
ちなみにこの年、前年プロ初勝利を上げたばかりの「F」の藤川は未だ一軍に定着できず。
「K」の久保田は新人で先発としてデビュー。シーズン後半は故障で離脱しています。
そして安藤はその活躍を買われて、アテネ五輪候補に名前を連ねます。
明けて04年、前年同様セットアッパーとして起用されますが03年のような快投とは行かず打ちこまれることもしばしば。しかしアテネ五輪代表選出は既定路線であったため、安藤は五輪代表メンバーとしてペナントレースを離れることとなりました(オリンピックでは目立った活躍はなし)。
同じくウィリアムスもオーストラリアの五輪代表としてチームを離れます。
そして、リガンも故障離脱。
手薄となったリリーフ陣の再構築のため
久保田と藤川球児が岡田監督に認められ、リリーフとして定着したのです。
この年はJFKの原形が作られつつあった、という段階で、ハッキリとJFKが確立するのは翌05年からなんですね。
ですから
安藤はJFKにつなぐ役割を果たした、という文言は事実に当てはまらない。
失礼いたしました。
つまらないイチャモンを付けてしまいましたが
本としては私の知らない事も多々あって
すごく面白かったんですけどね…!
それにしても源五郎丸氏がその後造園業に関わっていたとは(今は違うようですが)驚きでした。
今すぐに当社にお越しいただきたい位ですが…(笑)!