和田豊について書く。

 

さすがのヘソ曲がりの私でも、今日は書かないわけにはいかないだろう。

 

 

(いつもとは異なる文体で書きますがご了承願います。それと、先に言っておきますが長いです。)

 

 

クライマックスで阪神が巨人を相手に、しかも東京ドームでまさかの4連勝で日本シリーズ出場を決めたのだ。

 

これはセ・リーグの優勝ではなくあくまで日本シリーズ出場権を獲得しただけであって、トーナメントで言えば準決勝で勝ったようなものと位置付けることもできよう。

 

 

よって胴上げやビールかけなどが行われた訳ではなかった。

 

 

 

しかし

 

 

優勝から遠ざかっていた事はもちろん

 

昨年、3位だった広島にあっけなく敗れたクライマックスに象徴されるように

 

クライマックスで全く勝てなかったのが阪神だったのだ。

 

 

 

毎年のように(CSに出場すらできない年もあったが)繰り返される敗戦シーンに

 

今年もどうせ…と口にはしないが期待薄ムードがそもそもクライマックスにはあったのだ。

 

 

 

ところが広島が2位のかかった最終戦で、優勝が決まって消化試合となった巨人を相手に

 

しかも前日雨で試合が順延となった試合を、マエケンで落としてしまって流れが明らかに変わった。

 

 

 

そして巨人は今年エースに成長した菅野を欠いた。

 

 

流れは全て阪神に向かっていた。

 

 

 

 

そして昨夜、阪神は勝った。

 

 

 

 

苦汁をなめ続けたファンにとっては優勝に等しい気持ちであり

 

相手が巨人であっただけにそう感じるのかも知れないが

 

まさに歴史的な日となったのだ。

 

 

 

 

今日は敢えて選手の事は語らない。

 

 

 

 

和田豊。

 

 

 

昨夜、遂にこの名前が歴史の表舞台に刻まれることとなった。

 

 

 

一般に、和田豊についてまわるイメージは

 

 

「地味」

 

 

なのだとろうと思う。

 

 

 

 

確かにその通りだろう。

 

 

小柄で、現役時代もホームランはなく右打ちを得意としたバッターだった。

 

そして性格的にも前に出るタイプではない。

 

 

 

しかし

 

 

 

我々のように古くからのファンにとっては和田豊はビッグネームなのだ。

 

 

和田は1985年がルーキーイヤーである。
バース、掛布、岡田を擁する阪神が日本一にまでなった年だ。

 

 

新人・和田は一軍で先輩たちの躍動を見て、優勝の喜びを知ったところからプロ野球生活が始まった。

 

和田が4年目、暗黒時代となった1988年に村山新監督の若手起用方針で2番・ショートのレギュラーに抜擢されたのが和田だった。

 

ショートには名手・平田がいたが、和田は平田以上のバッティングと走力でレギュラー定着を果たす。

 

そして以降、1番バッターとなって打率3割を何度も記録し首位打者争いに加わることもあった。

 

 

しかし、和田の奮闘むなしくチームは暗黒時代をさまよい続けた。

 

 

1番和田が塁に出ても、返すクリーンアップが全くいなかったのだ。

 

 

岡田や真弓は次第に衰え

 

外国人もことごとくダメだった。

 

 

一時オマリーが活躍して92年にはパチョレックも加わって優勝を争うシーズンとなったのだが

 

結局は2位で終わり、オマリーが去った後は更に深い暗黒の時代に戻ってしまった。

 

 

 

しまいには4番・平塚。

 

今はスカウトとして頑張っておられる平塚氏には申し訳ないし、ホームラン17本も打った年もあったのだが

 

このオーダーはまさに暗黒時代の象徴だった。

 

 

 

そんな中で、和田だけが安定してヒットを打ち続けた。

 

ショートに久慈が入ってポジションはセカンドに転向し、球団初の1億円プレイヤーになったのも和田だった。

 

 

オールスターと言えば、阪神から和田と投手一人だけなどというパターンも多く

 

決して派手な活躍はしないのだが、当時の阪神が唯一レギュラーとして誇れる選手であったのだ。

 

 

 

その和田も年齢とともに衰えもあったのだろうが

 

野村監督になった時にとうとうレギュラーを剥奪された格好になった。

 

 

 

 

そして2001年に引退。

 

 

引退試合に出場した和田が流し打った打球を巨人のセカンド・仁志が敢えて追わずライト前ヒットになった。

 

仁志は今でいうドヤ顔が嫌いだったが、この時のイキな計らいには感謝したい。

 

 

通算安打は1739本。

 

野村監督でなければ2000本だって狙えたかも知れなかったが、それでも阪神で藤田平、吉田義男に次ぐ歴代3位の記録である。

 

安打数だけならば掛布や岡田以上の数字を積み重ねてきた、紛れもない功労者であった。

 

 

 

 

そして引退のスピーチ。

 

 

リアルでは覚えていなかったのだが、後になってyou tubeで見たときは不覚にも私は涙ぐんでしまった。

 

以下、引退スピーチの全文である。

 

 

***

 

 

 

 昭和六十年、入団1年目で先輩たちに優勝の喜びを教えていただきました。自分が現役のうちにもう一度優勝したい、ファンのみなさんに思いっきり喜んでもらいたい、ここ数年、その思いだけで野球をしてきました。「失意泰然」、この言葉をモットーに、自分に言い聞かせながら野球に取り組んできました。志なかばで背番号六を球団にお返しするのは誠に残念ですが、私の夢を後輩たちに託したいと思います。そして、これから強くなっていくタイガースで、これからも後輩たちと共に頑張って行きたいと思います。球団関係者のみなさん、そして一緒に戦ってきた監督、コーチ、選手のみなさん、日本一の球場で常に良いコンディションで試合をさせててくれた阪神園芸のみなさん、そしていつも陰で支えてくれた裏方のみなさん、マスコミ関係のみなさん、そして日本一、いや世界一の温かい応援をいただいて、私自身百二十%の力をださせていただいた阪神タイガースファンのみなさん、本当にありがとうございました。十七年間、阪神タイガース一筋、現役生活を全うできたことを誇りに思います。十七年間本当にありがとうございました。

 

 

 

***

 

 

 

現役も晩年となると出番がなくなってくるのはもちろんだが、現役続行を希望して引退試合が行われないケースも少なくない。

 

 

阪神でも岡田はオリックスへ移籍、真弓も他球団への移籍を希望して獲得球団がなかったため引退となったので、引退試合がなかった。

 

 

そんな中で、恐らくは掛布以来の「キレイな」引退試合だったのではなかったかと思う。

 

 

 

 

 

そしてスピーチ内に「これから強くなっていくタイガースで、これからも後輩たちと共に頑張って行きたいと思います。」とあるように、和田は引退後すぐにコーチとなった。

 

その実直な性格、緻密な考えが球団内でも高く評価されたのだろう。

 

 

星野仙一監督のもと、島野育夫、田淵幸一、佐藤義則、達川光男、西本聖など「星野人脈」のコーチが続々と入ってくるなか、和田には球団側の後押しがあったのであろうと推測する。

 

 

特に打撃コーチを務めたのだが、他の打撃コーチが就任・退任をする中で何度も打撃コーチを務め

 

また内野守備走塁コーチなども歴任し

 

一度もユニフォームを脱ぐことなく阪神一筋でキャリアを積み上げてきたのである。

 

 

 

 

そしてコーチ時代に和田はインターネット上のブログを書いていた。

 

 

「虎の意地」

 

 

というタイトルのブログは、決して当たり障りのない内容ではなく興味深い内容で

 

また更新もキチンとされており、まさに和田豊の真面目で実直、そして鋭い分析力などの人間性の表れたものであったと思う。

 

 

暗黒時代から阪神ファンを続けてきた者にとっては、この時点で和田豊というのは他に較べようもないビッグネームになっていたのであ
 

 

 

 

る。

 

そして2011年、真弓前監督が退任となった際

 

 

 

阪神球団は和田豊に監督にした。

 

 

 

私も、全く同じ考えであり和田監督の誕生を歓迎し、そして喝采した。

 

 

しかし、一般的な世間の感想は

 

 

「なんか、地味」

 

 

ラジオのパーソナリティが放送でこう言ったとき、私は本当に頭にきた。

 

 

 

にわかファンが適当な事を言うな、と。

 

 

 

阪神は和田がコーチになって2年目の2003年に星野監督のもと優勝した。

 

そしてその時、阪神ファンは急増した。

 

 

 

阪神が強くなってからのファンは暗黒時代の事を知らない。

 

この場だけ許していただきたいが、私に言わせれば「にわかファン」である。

 

 

 

弱くてどうしようもない時に、そっぽを向いていた人たちだ。

 

その弱くてどうしようもない時に、阪神を支え続けた第一人者が和田豊だったのだ。

 

新しいファンが和田の事を詳しく知らないのは仕方ない事だが、私たちコアなファンにとっては和田豊はビッグネームなのであり、軽々しく批判をして欲しくないのである。

 

 

 

 

監督となった和田は、歴代の阪神の監督がそうであったように批判の矢面にさらされる立場となる。

 

今年の9月に6連敗を喫して優勝どころか3位の危機になった際には、とうとう去就問題となった。

 

「和田、やめろ」の声が日増しに大きくなっていった。

 

 

 

しかし、前述のとおりの流れで広島が倒れてくれる形で阪神は2位を確保し

 

和田監督の留任が発表された。

 

 

 

 

そして、臨んだクライマックス・シリーズ。

 

 

 

結果、和田豊は阪神の栄光の歴史にその名を刻むこととなったのである。

 

これで、和田豊という名前が私たちコアなファンのみならず皆が認める名前になっていくだろう。

 

 

 

これからの阪神には金本、矢野、桧山という次世代の監督候補が揃っており、和田が監督を勤める期間はそう長くないのかも知れない。

 

 

 

 

しかし

 

 

和田豊という名前は

 

 

いつまでも我々の心の中で輝き続けるのである。